ブランショがカフカの文学について論じている(「カフカと文学」『焔の文学』所収)。あの一種異様なカフカ小説の謎を、ブランショは明解に説明しているように思われる。
「文学は、話すことが最も困難な時に話そうと試みることであるが、それは混乱があらゆる言語を排除し、したがって最も正確な、最も意識的な、曖昧さと混乱から最も離れた言語、すなわち文学的言語の助けを必要とする瞬間の方に、文学が向かってゆくことによって得られるように思われる。」
「文学は苦しみを物として構成することによってそれを客観化する。文学は苦しみを表現するのではない。それを別の世界に存在させるのだ。それに一つの物性を与えるのだが、その物性はもはや肉体の物性ではなくて語の物性であり、その語によって、苦しみが存在しようとする世界の顚覆が意味されるのである。」(重信常喜訳)
カフカは、自分のうちに抱え込んでいる「何か」を文字化することによって、「小説」たらしめようと試みたが、それはそもそも不可能であって、だからカフカの小説は大半が未完成に終わらざるをえない。
だが、そこにこそ「書く」ことの意味があるのではないか。負けることがわかっている闘いを闘うこと。おそらく、私たちがカフカに惹きつけられるのは、この闘いの過程が、彼の書く文章に生々しく刻印されているからだろう。
「変身」の毒虫は何を表しているのかとか、「城」は何を象徴しているのかという問いを立ててしまうと、カフカの仕掛けた(?)罠にはまるのではないか、と常々思っていた。ブランショは象徴を意味づけすることなく、「書く」という一点からカフカの本質を論じている。
ことばが持つ不可能性とはなにか? 事物を表すことができるが、事物そのものではないということ。だが、それはことばの「可能性」でもある。ことばと事物の「距離」を意識するときに、「文学」は生まれる。
「ぼくは文学でしかない、しかもそれ以外のなにものでもありえないし、あろうとも思わない」とカフカは日記に書いている。