動く集会

2024年12月15日


 柄谷行人は、デモによって社会を変えられるかという問いに対して、「人がデモをする社会」に変わるからその意義は大きいと言う(『政治と思想 19602011』平凡社)。そのことばは、もはやデモすらできなくなった香港の状況を見るならば、切実に響いてくる。

 さらに、柄谷はデモをするにあたり国家の許可が必要だということがおかしいと述べている。交通を規制してデモが無事に通れるようにするのが警察の仕事のはずだが、デモを分断したり、嫌がらせのため逮捕したりと抑圧していると指摘する。たしかに、デモの現場での警察の横暴は目に余るものがある。

 忘れがちになるが、私たちがデモを行う権利は憲法第21条「集会・結社・表現の自由」で保障されている。それが昨今、なぜだかデモを行う人たちが犯罪者扱いされる風潮が蔓延している。たとえば、先日沖縄県議会でも、辺野古新基地反対運動について県警本部長が「一部には極左暴力集団も確認している」と答弁している(『琉球新報』127日)。大いに誤解を招く発言である。大衆の運動と「極左暴力集団」のデモは分けて考えなければならないはずなのに混同することによって、デモが「ならず者」の集団による運動だという印象をもたらす。

 実際に辺野古の現場を訪れてみれば、そんなことは事実無根だということがすぐにわかるだろう。そこは、年配の方々を中心に戦争を二度と起こさせないという思いで座り込みに参加する場となっている。座り込みながら、互いに知らない人同士の間に会話が生まれる。飴や黒砂糖などが回され、それを口にしながら、隣に座っている年配の方の戦争体験を聞く。若い人たちの参加はさほど多くないが、それでもこのようにして沖縄戦の体験は受け継がれていくのだろうと思う。沖縄では辛うじてかもしれないが、まだデモの精神が残っている。

 「動く集会」について柄谷は次のように語っている。


 デモは集会の一環であり、いわば、動く集会です。その場合、動くとか歩くとか、そういうことに、じつは深い意味があると思います。それは、一定の場所で討議するのと違って、人間が遊動性を回復することになるからです。決まった広場や会館に集まるのではなくて、人々が集まって歩く、あるいは、動いている空間が「広場」となる。立派な建物のなかでなされる集会は、「動く集会」にはなりません。「動く集会」には直接的な民主主義がある。202頁)


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