DVや性暴力被害者支援をしている方たちの対談集を読む。当事者の支援に関わるふたりの話は明快で、現場の状況をよく伝えてくれる興味深い本である。当事者もそれに関わる支援者も非常に厳しい環境におかれていることがよくわかる。
ギリギリの境界からの発言だということは理解できるし、公けにするには相当の覚悟も必要であろう。それでも敢えて言わせてもらえば、ふたりの対談には、そこはかとない違和感がある。当事者やその人たちの状況について語る「ことば」があまりにも明快なのではないかということである。もちろん事件の被害者たちは深淵な暴力に遭い語ることばを失っているのだから、ふたりが「代理」的に語らざるをえないのだろうが、その論理的・分析的でもある語り口の切れ味の良さが気になった。
語らなければ過酷な状況は伝わらないのだし、当事者を取り巻く社会環境を変えていくのもむずかしいだろう。その点において語り手もまた、語ること/語らないことのジレンマを抱えているのだと思うが、自分の中でどう折り合いをつけているのだろうか。
ある事態について述べるとき、当事者や被害者でなくても、ことばが見つからないということはよく起こりうる。そんなとき、私たちが迷いを抑えて語ることはひとつの決断になる。決断もまた一種の「暴力」である。正解はないのだと思う。
語れないことを「ことば」を使って語ることのむずかしさ、逡巡について思いをめぐらせるときに、パウル・ツェランの詩は私にひとつの方向を指し示してくれる。
立つこと、空中の
傷痕の影のなかに。
誰の―ためでもなく―何の―ためでもなく―立つこと。
識別されず、
ただ
お前だけのために。
そこにあるすべてとともに、
言葉も
持たず。
(中村朝子訳)