『河岸忘日抄』堀江敏幸
「彼」と呼ばれる主人公は、母国を出て異国の地で暮らしている。大きな川に繫留された船が彼の住居だ。明確な理由は示されないが、どうやら彼は仕事を辞めて、この地に来たらしい。季節は秋から冬に向かっている。彼は毎日を船の上で過ごしている。朝起きて、淹れたてのコーヒーを飲み、時々訪ねてくる郵便配達夫のためにクレープを焼いてコーヒーといっしょに振る舞う。知り合いの老人から借り受けたこの船には、家具や台所が備えつけられており、快適に暮らせるようになっている。デッキに椅子を出して、時々、近隣の船から遊びにやって来る少女に、マルメロでつくったジャムを供して無為の時間をともに過ごす。来客がない時には、音響機器に船の持ち主のレコードやCDを次々とかけ、本棚にあるチェーホフやクロフツの『樽』を読みふける。陸地から微妙に離れた船の上で世間とつながるのはラジオだけだ。
まるで隠遁者のような彼の日々の思索が、丁寧な文章でつづられていく。
「ためらいの専門家を求める企業があれば、彼はすぐにも採用されるにちがいない。ためらうことの贅沢について、彼はしぶとく考えつづけている。ためらう行為のなかに決断の不在を見るのは、しかしあまりにも浅はかだ、といまの彼は思うのだった。(中略)ためらいとは、二者択一、三者択一を甘んじて受け入れ、なお身体に深く残留する疲労感のようなものだ。(中略)ためらうことの贅沢とは、目のまえの道を選ぶための小さな決断の総体を受け入れることにほかならないのである。」
緻密でありながらも、どんどん枝葉をひろげていく軽やかな思考は、水の上という特殊な空間にいるからこそ生まれてきたのではないかと思わせる。船はいまにもどこかに流れ出していきそうになりながらも、繫留されかろうじてそこにとどまっている。
もちろん、この贅沢な時間はただで得られるものではない。おそらく母国を出るという決断なしに、この特権は得られなかっただろう。しかし、彼は自分が異国の地にいる異邦人であり、ここが最終的な安住の地でないということも意識している。
この小説では何も起こらない。いや、それは正確ではない。彼に船を貸してくれた老人が病気で亡くなる。それは劇的な死ではない。もともと高齢で病気だった老人の死はあらかじめ定められているようなもので、ゆるやかに死へと向かっていく様子を彼も感じ取っていたはずだ。老人の死は、彼の胸の中にさざ波を立てながら、やがてまたつづいていく日常生活の一部となっていく。いずれ、豪放磊落であった老人の言葉だけが記憶の澱として残るだろう。
「いいか、きみはまだ若いほうに属する人間だ、けっして大勢にはつくな、多数派に賛同するな、たとえ連中が正しくともだ、こいつは屁理屈なんかではない、なぜなら、数が多いというだけで、それはまちがっているからだよ」
いま私たちに必要なのは、波の上にたゆたう時間、つまり本当の意味で「何もしない」時間なのではないか。真の豊かさは、この時間に存しているように思われる。
「海にむかう水が目のまえを流れていさえすれば、どんな国のどんな街であろうと、自分のいる場所は河岸と呼ばれていいはずだ、と彼は思っていた」と冒頭に宣言されているように、「河岸」はいたる所にある。ほんの少しの「思いきり」があれば、自分の「時間」と「空間」はすぐにでもどこにでもつくることができるのだ。