ひらく

2021年2月22日



高山羽根子「首里の馬」

 生まれ育ちは沖縄だが両親が関東出身だという末名子の出自は、沖縄で生きていくうえで孤独の要因となっているだろうと想像するに難くない。さらに、「女性」であることが、男性優位の傾向が強い沖縄での束縛となっているのではないか。自宅の庭に迷い込んだ馬を連れていったときの警官の対応や、パソコンの修理業者である電気店の男の彼女に対する感情の爆発などを見ると、この社会での女性の生きづらさを伺うことができる。そう、沖縄出自でない女性は、二重の意味で圧倒的多数の「沖縄人」からなる社会から意図せず疎外されてしまうのだ。だから末名子は「幼いころからあまり人間が好きじゃないと考えていた」のかもしれない。
 沖縄に関するすべての資料を保存しておく資料館で「インデックスカードの整理と確認」を末名子はボランティアとして行っている。
「この資料館に通うようになってからも、末名子は自分のいる土地の歴史や文化にあまり強く興味を持つことはなかった。ただ資料館に積まれたものを見て、そこにあるいろんな事情を読み解くことは楽しかった。」
 自己の拠りどころを「沖縄」に求める人間にとって「土地の歴史や文化」は大切な要因であろう。それがあってこそ、「あるべき」沖縄が形づくられ、自分自身のアイデンティティも担保されるだろうから。しかしそこからこぼれ落ちる人間は(末名子のように興味を持たない人間は)、はたして沖縄人たる資格がないのだろうか。
 いや、そうではないと末名子はつぶやいているように思える。先に引用した文章に次の一節がつづく。「そのとき、人間というものに興味が持てないのだと思いこんでいた末名子は、でも、順さんの集めた資料を見ることで、自分のまわりにいる人たちや人の作った全部のものが、ずっと先に生きる新しい人たちの足もとのほんのひと欠片になることもあるのだと思えたら、自分は案外人間というものが好きなのかもしれないと考えることができた。」
 未来につながる「欠片」として生きていくことを決めたときに、人はその場所に住む権利を得るのではないか。そのとき、資料を整理していくこと自体が末名子の生きる目的になっていく。その作業の過程は魅力的である。
「インデックスの整理は、補修が済むと次のステップに進む。ひとつの約束ごとでライン上に並んでいるものを一度ほどいて、また別の約束ごとでつなぎなおすということを繰り返かえす。さまざまな要素でつなぎ変えることを続けると、情報同士は有機的に関連していき、切り離されたものがまた別の項目と紐づけられる。」
 それは、まるで人と人が結び合う喩えのようだ。末名子はオンラインでクイズを出題する自分の仕事をこう表現している。「孤独であることは、この仕事をするためにとても重要な要素なのだと末名子は考えていた。」
 末名子は意図せずして孤独な人たちと結びついている。宇宙にいるヴァンダ。南極の深海にいるポーラ。危険地帯のシェルターに住んでいるギバノ。世界で一番孤独な場所に住んでいる人たちとつながろうとする末名子もまた、孤独な場所に住んでいるのだ。沖縄についての資料(アーカイブ)を世界一孤独な場所に送り保存してもらう理由はそこにあるだろう。
 だが、物語はそれだけでは終わらない。
 末名子はさらに一歩進んで、孤独な場所で生きていくことを決意しているかのように見える。途絶えた琉球競馬の末裔である「ヒコーキ」に乗ってウェブカメラで沖縄を「記録」することは、これまで資料館でデータを整理することとはちがって、地に足をつけて暮らしていく決心がうかがえる。決して速足ではない、ゆるりと進んでいく馬の背に乗ってカメラに通りの光景をおさめていく場面は読後も強く印象に残る。
 この世で一番孤独な場所とは、「誰もが希望すれば容易にアクセスは可能な」場所のことでもある。他の場所とつながることにより、ある種の人にとっては閉ざされて息苦しくあるだろう沖縄が、オープンな場所になっていく。「この島の、できる限りの全部の情報が、いつか全世界の真実と接続するように。」
 排他的に沖縄を称賛する言説が見られるなど、いくぶん硬直化しているように見えるいまの沖縄社会を開いていく可能性は、声高に「沖縄」を云々する人間にというわけではなく、正論で語られる社会のありかたに違和をおぼえながらひっそりと暮らしている人たちにあるのではないか。そして、それはなにも沖縄だけの話ではない。

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