〈私〉という私

2021年1月6日



 何年も前の出来事だが、忘れられず、時々思い起こすことがある。朝、職場へ出勤のために歩いていたときのこと。バス停で5歳ぐらいの男の子と母親が待っている。私がその前を通り過ぎようとしたとき、男の子と目が合った。男の子は私を指さして、「おじちゃん、だあれ?」と訊いてきた。母親は慌てて、失礼でしょ、とでもいうように男の子を制しようとした。とっさのことに私はうまく反応ができず苦笑いして通り過ぎるしかなかった。それだけの話であるが、私はそのあと考え込んでしまった。この男の子に対して、私は「自分」を説明することばを持っていないことに気づいたからである。私の名前はもとより、肩書、所属などを男の子に説明しても、私という人間を説明したことにはならないだろうし、男の子自身も納得しないだろう。私は何者なのか―、と深みにはまるまで自分を追い詰めることはしなかったが、興味深い出来事だと忘れられなかったのである。

 鷲田清一「じぶん・この不思議な存在」は、「私」とはなにかを考えるうえで、示唆に富む考察を示してくれる。


「わたしはいつも〈わたし〉であるわけではない。一日のなかでも、わたしはより強く〈わたし〉であったり、ほとんど〈わたし〉でなくなったりする。それはわたしが、もともと他者との関係のなかでしか〈わたし〉とならないからだ。」


「わたしは〈他者の他者〉であるということ。」


「私」とは他者との関係性からつくられるということを簡潔に説明している。「私」を追求しても、おそらく突き詰めることはできない。それよりも、この社会の中で私たちは関係性の網の中に位置づけられることによってアイデンティティを確立しているのだと考えると腑に落ちる。

 それであるなら、あの男の子への説明もできるような気がする。男の子が求めているのは私自身の説明というよりも、男の子にとって私は何なのか、ということではなかっただろうか。


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