フィクションという現実

2020年12月18日


 

 久しぶりに―それこそ20年ぶりに―「ライフ・イズ・ビューティフル」を見る。第二次世界大戦中、イタリアのトスカーナに住む親子がナチスによって強制収容所に送られる。ロベルト・ベニーニ演ずる父は息子に過酷な現実を見せないように、いま自分たちはゲームをしているのだと、最後まで演技をする。レビューなどはまったく見ていないのでわからないが、およそ現実から遠い話ではないかといったたぐいの批判が出たのではないかと勝手に心配する。現実はもっと悲惨で、収容所の中に笑いはなかった、といったような。だが、私が惹かれるのは、現実の「悪い話」に対置するようにフィクション上の「良い話」をつくりあげ、それに全面的な信頼を寄せている主人公の姿勢である。ベニーニはメイキングのインタビューで、想像力が悲惨な現実に打ち勝つという話をしている。この一点に映画のすべてが賭けられていると思った。

 クエンティン・タランティーノの映画もまた、フィクション性にこだわっている。ある時期から歴史を恣意的に脚色する映画をつくるようになった。「イングロリアス・バスターズ」ではヒトラーが暗殺され、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」は陰惨なシャロン・テート事件を、希望あるラストに書き替えている。「ヘイトフル・エイト」の冒頭から終幕にいたるまで関わってくるリンカーンからの架空の手紙は、簡潔にタランティーノ映画のフィクション性をあらわしているのかもしれない。フィクション化に焦点を当てると、「レザボア・ドッグス」や「パルプ・フィクション」の時間をジャンプさせ、物語の順序を自在に替えていく語り口も、ただ奇をてらっているわけでなく、意識的な手法であることがわかる。

 タランティーノの映画では、人は簡単に殺され血が頻繁に流れ、女性は殴られ徹底的に痛めつけられる。暴力主義、女性差別者、と批判するのは容易だ。しかし、それはすべて「フィクション」なのだ、ということに意識的であるのもまたタランティーノなのである。私たちは、つい映画や小説で起こる出来事を現実と取り違えてしまうが(そうではないだろうか。モラル的ではない、神を冒涜している、などの実社会的な言説をフィクションに対してなぜ真剣に云々するのだろうか)、ある映画監督も端的に指摘するように映画の中で流れる血は赤い塗料なのである。その欺瞞にあえて意識的であることが、物語をつくるうえで最低限求められる倫理なのかもしれない。

すべてはスクリーンの矩形の枠内で起こる「現実」なのだ、と前提するところから「物語」は始まる/始まらなければならない、のではないかと思う。




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