ジョン・ル・カレが亡くなった。手を伸ばせば、その緻密で緊迫感にあふれた物語の世界にいつでも触れることができるのだと思い込んでいたところがあって、もはや新作を読むことができないのかと思うと呆然としてしまう。
「スパイ小説の巨匠」と新聞記事などでは、きまり文句で書かれるが、単なるスパイ小説を超えて、外部の大きな流れに翻弄される人たちの心の襞にわけいりつつも、冷静な筆致で壮大な物語を展開できる作家であった。「寒い国から帰ってきたスパイ」の登場人物たちに終始つきまとう疲労と哀しさの影は忘れられない。国家と国家の狭間で、彼らは常に重いものを背負わされ、通常の社会生活から疎外され「引き裂かれ」ている。
なぜこのように陰影のある人物たちを巧みに描けるのだろうと思っていたのだが、追悼の記事には、ル・カレは大学時代に左翼系の学生をスパイして政府の情報機関に密告していた、とある。自身が裏切りと信頼の狭間に立ち、揺れ動く経験があったからこそ人間の深奥を描けたのかもしれないと考えると、複雑な気持ちになる。
ゴダール「勝手にしやがれ」の台詞に「密告者は密告をし、強盗は強盗をし、人殺しは人を殺し…」というのがあったと記憶している。生まれながらの「密告者」は生涯をとおして密告者であるしかないのか。裏切りのほろ苦さとその取り返しのつかなさを経験した者にしか書けない小説、というのがあるのなら、ル・カレの小説こそがまさにそれである。