ジャームッシュの映画「パターソン」のバスの運転手(パターソン市に住むパターソン氏)は、コーヒーとシリアルの朝食から始まって、仕事を終えたあと家で夕食をとり、犬の散歩、そしてバーでの一杯まで、決まった日常を繰り返す。毎日に変化はないように見える。といっても、無為の生活を送っているわけではなく、詩の創作に取り組むことが彼の楽しみのひとつでもある。彼がノートに書きつける詩もまた、日常を反映するかのように過剰な修飾語を使わず素朴だ。詩が非日常のものとして扱われていないことに好感を持つ。
佐伯一麦の小説「空にみずうみ」の語り手である小説家は、日々の鳥の鳴き声、樹木の芽吹き、空の色など細かな変化にたえず目を配っている。彼は部屋の窓から見える風景の移ろいに目を向けることによって、自分の内外に流れていく時間を慈しんでいる。矩形に区切られた風景のなんと豊かなことか。
彼らに共通するのは、何も起こらない日常というのはそれだけで「ありがたい」ものであるのを知っているということだ。
もちろん、彼らにはそう認識するまでにいたる背景がある。
パターソン氏は軍隊にいた経歴があり、もしかすると戦場に行っていたのかもしれないと示唆される。「空にみずうみ」の語り手は東日本大震災を体験している。
ことほぐべき日常は、命を奪いかねないほどの状況を経て初めて実感されるものなのだろうか。
何気ない日常に価値を見出す境地を、いかに獲得していくのか―。私たち一人ひとりが自分に問いかけていくべきことなのかもしれない、特にいまの時代にこそ。