趣味のいい酔客

2021年1月21日


 

 だいぶむかしの話。ハイデルバーグと呼ばれる街で。朝方、日が昇ったばかりのころ。人影もまだ見えない街中に、オペラをうたう男性の歌声が流れてくる。向かいの歩道を前から歩いてくるのは恰幅のいい中年の男性だった。ひとめで、男が酔っ払っているというのがわかった。バーで一晩中飲んでいたのだろうか、ふらついて歩きながらも、実に気持ち良さそうに歌っているのである。その気持ちはわかるような気がした。朝の空気は少し冷え冷えと澄んでいて目がさめるようで、次第にあたりに射してくる光は、これから温かく良い一日が始まるという予感に満ちている。酔っていても(酔っていればこそか)踊り出したくなるような朝ではないか。目を少し上げると遠くの山々の青い稜線がくっきりと空に浮かんでいる。

 深みのある低い声は、街中に朗々と響き渡った。私は立ち止まり、しばし聞き入った。もしかすると本職のオペラ歌手だろうか、とうかがっていると、どうも近くの自動車修理工場で働いている人間の格好にしか見えない。

 まだ眠気のさめない住人たちは、うつらうつらとしながら、ベッドの中で歌声に耳を澄ませている―そんな光景が浮かんでくる。なんと趣味のいい酔客であろうか、と私はその人のよろける大きな背中を見送った。

 だいぶ時間が経ってから、いま、男の容姿が唐突に思い浮かんでくる。こんな酔客がかつていたのだと思うと、日々の仕事でかたくなった心がほどけてくる。


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