冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位の時間がたつかというのでなくてただ確実にたって行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間というものなのである。
(吉田健一「時間」)
時間は手を伸ばせば触れることができるような物質的なものなのかもしれない。水のような、光のような。切れ目なくどこまでもうねってつづく吉田の文章を読みながら、直線的に継起していく文章を読むこと自体が〈時間〉を体感させてくれるものだと思う。
それが夕方であるからこれは朝と昼が既に過ぎたことであるがもしその朝と昼をそれ故に過去のもので既に終ったと見るならばそこにあるものは夕方の光線だけでそれだけである時にそれはただ奇妙な黄色の陰翳を帯びた光線であることに止って全く色彩上の問題に属させられる。その光線に朝日も白昼の影と対照をなす明るさも又その他夕方に至るまでの光線の段階が凡てあってその重なりが夕方の光線の艶を生じて眼に映じるから一つの成就の印象でこの光線に包まれた眺めが豊かなものになる。そしてそれ故にこれに続く夜の闇が我々にとって親密なものなのである。その成就というのは何かが終ったことであるよりも朝日が差すのから始って一日の時間がそのうちに起る一切とともにそこまで来たということで成就に至る段階が次々に消されて行くのならば成就の観念が我々を浸すこともない。それで人間が死ぬ時には消え去るのでなくてその人間の凡てがその時にそこにあってその人間というものが確定する。
(同上)