若い人たちと小説を講読しながら、ふと口をついて出た疑問。いったい私たちはなんのために小説を読んでいるのか。読むことは―書くこともそうだけれども―手間暇のかかる作業であり、いちいち場面を頭に思い描くのであれば、映像のほうが一瞬で理解できる。それなのに、なぜわたしたちは時間をかけて、小説を読むのか―。
読むことのガイドとなるはずの私がそんなことを口にするものだから、若い人たちの顔にはとまどいが浮かぶ。私にしても答えがあるわけではないので、黙ったままみんなの顔をうかがう。問いかけはその場に軽い波風を立てる。困惑させることを意図したわけではないので私は話題を変えて小説の講読をつづけた。
プルースト『失われた時を求めて』を読んでいた時期が思い浮かんでくる。当時私は仕事をしておらず、時間はいくらでもあったから家にこもって毎日読んでいたのではなかったか。屋内にいることに厭きると、あの重い本―ずっと手にもっていると腱鞘炎になる―を抱えて庭に出て読んでいた。1月の空気は冷たかったが、手足に太陽の光があたると温かさを感じて心地よい。芝生の枯草にも光が当たっていて、春はまだ先だったが、草木の芽吹きを予感させる土の濃い色が目につく。
小説の中に深く入り込んでいて、ふと目を上げると風景がぼんやりとしている。紗がかかったようにどこか現実的でないものを感じる。私はそれまで語り手の「私」やシャルリュス男爵などの人物たちと同じ19世紀末のフランス社会にいて、彼らの考え方に同化し、彼らをとりまく人びとの思惑や感情の渦に巻きこまれていた。
現実の世界にもどれないのではないかという不安とともに、周囲に目の焦点が合ってきて、少しずつ現実へ浮上していく。目の前にあるのは、沖縄の肌寒いが太陽が出ると肌に温かさを感じる冬の風景だった。
初めて『百年の孤独』を読んだときも屋外だった。夏の太陽が肌をじりじりと焼いていた記憶があるが、やはり小説の中から抜け出して現実と調和するためにしばらく時間がかかった。
このように本を読むことは、現実と虚構のせめぎ合いのなかで、二重の時間と空間を同時に生きて、自我を喪失する体験だったのではないかと思う。