不自由なからだで踊ること

2024年9月14日


 土方巽の「舞踏」の映像を見ていて考えたこと。たとえば、バレエの踊り―ほっそりとした姿形にすらりと伸びた手足、てのひらを返す優雅な舞い―を美しいと思う目からは、土方の異様な踊り―腕や足がねじ曲がり、背中は丸まり、指先は硬直したような踊り―は、「醜い」ものを目にしてしまったと一瞬思考が停止するのではないか。

土方はあるインタビューで言っている。「すらっとした脚は「論理整然」としているところから生まれるけれども、からだは、しゃべってもしゃべってもしゃべりきれないことを知ってしまっている」と述べ、彼の舞踏の特徴である「がに股」とは「口ごもる」ことである、と結論づける。

 逆説的なことに、土方の不器用ともいえる舞踏にこそ「肉体」が浮かび上がってくる。西洋のイデオロギー的な美意識を、土方の不自由な踊りは「政治性」をもって撃つ。スムーズに流れていくことで見えなくなるものがあるのだ。

 土方のことばを聞いたうえで、彼の舞踏を見ると、もがき、それでも踊らずにはいられない肉体の苦しみが見える。表現(express)とは、内なる感情や思いを外へ(ex)押し出す(press)ことなのだ。私が土方の舞踏を見ているうちに感じたのは物質となって表現される「哀しみ」だった。何の哀しみだろう。日本人であること? 肉体から逃れられないこと? 表現できないことを表現しなければならないこと? 

 土方はことばとからだを結びつけて舞踏の在り方を語っているが、私は逆に舞踏からことばについて考えさせられた。

私(たち)は流暢に日本語を話して書いているように見えるが、その言語の奥には抑圧されてきたものがあるはずで、それを可視化させることで日本語の政治性が浮き彫りになると思う。ことばもすべからく「がに股」であるべきだと、ひとり納得している。


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