好きなものであるほど、距離をとるのがむずかしい。それは何にでもあてはまる真理であろう。それに呑まれてしまっては、「私」の主体性を喪失しかねない。しかし、それほど危うい地点まで行かなくては、好きとはいえないのかもしれない。
泡盛マイスターがかつて言ったことばを時々思い返す。「酒飲みはマイスターになれない」。ふつうに考えると、酒が好きでないとマイスターになれないはずだが、好きになりすぎてもいけないということだろう。「マイスター」とは自分の中に相反するものをかかえつつ、それを統御する人のことなのだと断言したい誘惑に駆られる。
では、いかに自分が熱をいれているものと距離をとるのか。それができれば苦労はしないのだろうが、表現において「熱狂」と「冷静」(あるいは「冷徹」)を併存させることもひとつの手段だと思う。グレン・グールドの演奏するピアノ曲にそれを感じる。自由に跳ね回る熱狂した右手と、正確に低音を打刻する冷めた左手。分裂しているふたつのものを織りなして演奏することが「対位法」の語の正確な意味ではないかもしれないが、私はそうとらえている。