元読谷村役場職員の小橋川清弘氏に読谷村役場やその周辺を案内していただいた。私が以前そこを訪れたのはかなり前のことだ。広い道路に区画整理されてはいるが何もない広漠とした空間が急にあらわれ、沖縄ではないどこか別の場所に迷い込んだのかと不安さえおぼえたのだった。そこは米軍・読谷飛行場の返還地だと後に知った。
1946年時点では村の95%が米軍の占領地だった。それを戦後何十年もかけて取り戻してきた。しかし米軍基地は現在でも40%を占めている(データは小橋川氏の資料から。以下同)。
沖縄戦で沖縄本島に米軍が初めに上陸したのは読谷村の海岸だった。村の大部分は占領され、米軍基地が造られていく。1946年8月まで村民たちは自分の土地に帰ることも許されず、収容所での生活を送っていた。帰村後、村民たちは自分たちの土地を取り戻す運動を始めていく。
日本復帰後も基地があることによる事件・事故は絶えない。1972年時点でも基地の面積は村の約73%だった。
村民は反基地活動・平和運動を継続して行いながら、行政の仕事として米軍基地の中に、運動広場、多目的広場、野球場などを造っていく。なぜそういうことができたのかというと、基地の中で一時的に使用していない土地は日本国民が使用できると定めた日米地位協定の条項があるからだ。そうして米軍基地の中に自分たちの地所を増やしていき(碁の陣地取りを思わせる)、ついに2006年に読谷補助飛行場191ヘクタールのうち140ヘクタールの土地返還の実現へと結びついた。
小橋川氏のお話をうかがって印象的だったのは、土地返還・新たな街づくりをするにあたり、村はアメリカ政府と直接交渉をしていたことである。経験上、日本政府が動かない(動けない?)のはわかっていたから、自分たちから積極的に働きかけていたのだ。
米軍基地が返還された後にどのように跡地利用したいのか計画を自分たちでつくり説得の材料にしていく。合理的な説明に対してはアメリカ政府もそれなりに対応していく。まさにこれこそ行政の本分ではないだろうか。
当時の村長を筆頭に、役場の職員、そして住民たちの願いがうねりを起こす。反基地活動・平和運動へと結びつき、自分たちの土地を取り戻すことができた。「平和」「自治」という、ともすれば空疎に響きかねないことばの実現を信じて動くこと。この先例から学ぶべきものは多々ある。