幸福の記憶

2023年12月21日


 訪問先のスペインで自由時間を与えられた大江健三郎はある古書店に行く。『ガルガンチュア物語』の特製本がそこにあることを前もってヨーロッパ古書店めぐりの本で知っていたのだ。陳列窓からお目当ての本を見つけるが、あいにくとシエスタの時間のために店は閉まっている。そこで、大江は昼食もとらずに二時間半、古書店の前で立って待つのである。この貴重な本を誰かに先に購入されることを恐れて(「茫然たる自分の肖像」『親密な手紙』)。

 「陽のあたるなか、幸せな気持で立っていた」大江を想像するとこちらまで温かい気持ちになる。それはおそらく似たような経験が私にもあるからだろうが(私にかぎらず誰にでもあるだろう、特に子供のころ)、ふと思うと、そのような幸福をおぼえた出来事が近ごろない気がする。

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