社会のためではなく

2023年4月26日


私たちの定期的な読書会で、メンバーのひとりが「人材」ということばの使い方に違和感があると提起した。「材」とは人を物扱いしていて、それは取り換えがきくものでしかない。そんな人を社会は欲していて、大学などの教育機関はそれに応じて「人材」を育成し送り出しているのではという鋭い指摘だった。

「材」は「原料となるもの」のほかにも「役に立つ、才能」という意味があるが、それも「役に立つ」才能を社会が欲するというニュアンスをにじませているのだから、「才能」というのは一種の修辞法だと考えたほうが妥当である。実際にいま社会に出て働く人たちを見れば、残念なことに「材料」にしか過ぎないのはよくわかることだろう。人が「役立つ」かどうかを基準とする社会は、優生思想につながる風潮を生み出す。

だいぶ前のことを思い出した。ある学会の総会にたまたま参加したことがあって、「人材」にするか、「人財」にするかで侃々諤々の議論をしていたのだ。「宝」と表記を変えても、日本社会が人を物扱いしていることに変わりはないのだから、それに固執することは、もっと大切なものを覆い隠してしまうと私は内心思っていたのだが、その総会で挨拶を求められた名誉職にある人が、開口一番、「どちらの表記にするかは、どうでもいいことだが」と長時間にわたる議論を一言で切り捨てたのは痛快だった。

「人材」ということばは安易に使わないようにしたい。たかが、ことばに関する些末なことと思う人もいるかもしれないが、ことば自体に物事の本質があらわれるのではないか。だからこそ「表象」にこだわるべきではないかと思う。


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