見えないネットワーク

2023年2月11日



先日、研究者の方たちとともに沖縄在住の客家(客家 - Wikipedia)の方のお話を聞く機会に恵まれた。県内での客家の存在については知っていたが、どのように沖縄と関わってきたのかについてはまったく知らなかった。以下はその方の語りを私自身の「備忘」のため、簡単にまとめたものである。


沖縄在住の客家は減りつつあり、いまでは1,000人ほどしかいないのではないか。1940年代に台湾から石垣島に移住してきたのが最初で、1950年代に沖縄本島に移り住む流れができたのは、米軍基地建設の要員として需要があったからだ。給与は高額で沖縄人の月収の3倍はあった。客家の特徴として言語に長けているということがあった。だから、世界中どこで暮らしても順応できたし、沖縄では米軍基地の中でも働くことができた。手先が器用なので、基地周辺の商店街でテイラーとして働く人もいた。

1972年の沖縄の「日本復帰」以降、製造業は下降し、代わって観光業が盛んになった。それで旅行業に携わる客家の人も多くいた。現在では県内に客家がかかわる旅行社は4社しかない。また、だいぶ少なくなったが、客家の人たちが経営する飲食店のなかで、「東洋飯店」「ツバメ食堂」はいまでも名高い。

 純粋に「客家」と呼ばれる人たちも3世、4世となるにつれて少なくなっていく。客家語を話すことができる人までが「客家」と呼ばれるべきだろう。私の息子などは、私が客家のアイデンティティうんぬんの話をすると無関心に聞いている。

 日本と台湾の国交断絶により、県内在住の客家の人たちは無国籍になった。日本政府は身分保障のため、県内在住の台湾人に1973年に帰化申請を認めた。なかには、中国のパスポートを購入し身分を偽る人たちもいたが、彼らはブラックリストに登録され、10年以上も台湾に帰れなかった。

 日本人になりたいという強い思いのもと、改名する人もいた。たとえば「林」という苗字は「林(はやし)」「小林」「大林」と改名した。

 台湾は、外省人、内省人、原住民などで構成される多文化社会である。沖縄の文化や風習と似ているところもある。たとえば、墓は族単位である。これは家族のつながりを強化するもので、そのせいか台湾では離婚率が低い。

 

以上、大まかにまとめたが、話の内容もさることながら、私が強く惹かれたのはその人の語り口であった。中国語話者らしい腹の底から発する力強い日本語で、ライフヒストリーを淀みなく語っていく。話している途中で主題から逸れ、別の話題に移ってもその話もまた物語として聞きごたえがあった。何気ない日常生活のエピソードのなかに、何十年も異郷で暮らした客家の歴史をうかがい知ることができる。

沖縄の戦後史で表立って語られることのない客家だが、彼ら/彼女らが沖縄の内外をつなげながら、戦後沖縄の復興を陰で支えていたにちがいないのだと思わせる興味深い話であった。


QooQ