海辺の家

2022年8月13日



 いつも肝心なことを忘れてしまう。

 ある島嶼を訪れたときに、初対面の初老の女性の家に招かれて麦茶をいただいたことがある。きっかけは憶えていない。道ですれ違ったのだったか、どこかの店先でことばを交わしたのだったか。

 立派な一軒家は、海辺に建っていた。よもやま話の合間に、家を建てた経緯をうかがう。もともと東京に住んでいたのだが、夫が急逝したので、海が好きだった彼のために島に移住したのだという。

 朝起きると窓から外に出て浜辺を散歩するのが日課になっている。

 女性が障子と掃き出し窓をあけ放つと目の前は海だった。曇りがちの空の下に海は光を湛えている。静かな波が絶え間なく寄せてくる。白い砂浜は人の歩き回った跡もなく綺麗だった。

 いまでは、女性の顔も憶えていない。名前もうかがったと思うが、思い出せない。あの掃き出し窓に切り取られた海の風景だけが記憶に残っている。


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