神が完全に死んでしまった世界において、右翼のものであろうと、左翼のものであろうと、あらゆる約束にもかかわらず、自分が幸福になることはないだろうと人々が知っている世界において、言語は、われわれが持つ唯一の手段、われわれが持つ唯一の源泉なのです。言語は、われわれの記憶の窪みそのものにおいて、われわれの頭を駆けめぐるわれわれの言葉のそれぞれの下で、われわれに対してあるものを明らかにしてくれるのですが、言語がわれわれに対して明らかにしてくれるものこそ、狂気であるという荘厳なる自由なのです。狂気の経験が、われわれの文明においてとりわけ強烈なのは、おそらくまさにそのためです。狂気の経験は言うなれば、われわれの文学における森林限界を形作っているのです。
(ミシェル・フーコー『フーコー文学講義―大いなる異邦のもの』柵瀬宏平訳)