2022年6月10日



 このところ沖縄は雨が降り続いている。6月中頃まで梅雨の時期を過ごさなくてはならない。雨宿りをかねて、私たちは屋根のあるテラスの椅子に座って降りしきる雨を見ていた。

 急な土砂降りに見舞われることがたびたびあり、車の運転に支障は出るし、歩道を数分歩くだけでも靴やズボンが回復不能なくらい濡れるので、私は雨にはうんざりするという話をした。するとその人は、雨を見るのは好きだと遠慮がちに言う。

 よくよく考えると私も雨は好きなのだった。窓ガラス越しに雨が静かに降っていると時間も忘れて見入っていることがある。それは小さいころからいまになるまで変わらない。雨にうんざりするというのは不用意なことばだったと反省する。

 からだが濡れそぼつほどの雨も決して嫌いではない。先日、大雨にやられて運転中の車がエンストで停まってしまった。豪雨の中をひとりで車を押していくのは泣きたくなるほどのものだったが、それでも、雨にずぶ濡れになることで、自棄を通り越して清々しい気持ちが湧き起こったのも確かなのだった。

 タルコフスキーは、見終わった瞬間にあらすじを忘れてしまう不思議な映画を撮る。いったいそこで何が起こっていたのか、私たちは何を見ていたのか、夢魔の世界をさまようフワフワとした感覚が残る。

 たぶん『ノスタルジー』だったかと思うが、ずっと雨が降っていて、廃墟のような家屋は雨漏りがしている。水が床を打つ音、湿気が部屋を浸食していく様子がまざまざと体感される。

 そのシーンはそれとも『鏡』だっただろうか。タルコフスキーのどの映画も火や水や風や土が世界を形づくっていて、もはやどの映画なのかは関係がないほど私の頭の中で融解している。万物を構成する四大元素に込められた意味は推測するしかないが、雨や水たまりは言うまでもなく、窓の外に立ち込める霧やマグカップの湯気、壁を濡らす湿気というように形を変えて画面に充満する「水」はそれだけで圧倒的なのだ。

 映画を思い返すたびに私のからだは水気に侵されていき、確固とした輪郭を失っていく。


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