「平和」について

2022年5月14日



 友人と久々の再会。長期間にわたって中南米で仕事をしている。

 その国では誘拐や殺人は日常の出来事だという。運転していて信号で止まるときは、隣に並ばれて銃を突きつけられないように先頭にならない、逃げる余地をつくるために車間距離をあけるなど具体的な対応の列挙に、こちらも緊張感をもって聞く。

 沖縄にいてすら、店に入るときには出口の確認できる席に座る、ガラスに映る人影を確認するなど、身の安全を守るすべが徹底している。

 日本に帰ってきて「平和」を揶揄することばを政治家などから聞くが、「平和ボケ」でいいではないか、「平和」こそ最高の宝物だと友人は力強く言う。

 同感である。私にはむしろ日本の政治家や識者がゲーム感覚で戦争や政治を語っているように見える。彼らの使う「現実的」ということばこそ、他者の痛苦を想像する力を欠いているという点で、現実から乖離した抽象的な意味合いしか持ちえていないと思う。

「平和」を語ること、そのために米軍基地へ反対の声を上げることや反戦運動をすることがなにか異端に見られるという、奇妙な潮流が生まれつつあるのを沖縄にいて感じる。

 大勢が「現実主義」を声高に唱えることが、いずれは現実でない非日常へと移行していく―。日本社会はそういう道をたどりつつあるのではないか。かつてのように。


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