ヒッチコックしかいない

2022年3月22日



 このところ憑りつかれたように、ヒッチコックの映画を観ている。中学生のとき「サイコ」を観て「最高!」と感銘を受けて以来、ヒッチコックは常に私のベスト映画監督だったが、ここ十年ほどは遠ざかっていた。

「汚名」をたまたま観る機会があり、いままで何度も観てきたにもかかわらず、こんな完璧な映画はないのではないかと目の前に閃光が走ったように啓示がひらめき、それから続けざまに借りてきたDVDに溺れる毎日だった。「トパーズ」や「引き裂かれたカーテン」などの後期作品は失敗作と酷評されたが、それでも、並外れた映画であると思う。

 ヒッチコックの映画の中ですべてがコントロールされているように見えるのは、スタジオ・システム全盛期のころに映画がつくられているからだろう。「裏窓」のセットはそれだけで「世界」を形づくっている。「ロープ」や「ダイヤルMを廻せ!」に代表されるように、閉じられたセットの中でこそカメラが生き生きと自由に動きだす。

「めまい」。ホテルの一室で生まれ変わったキム・ノヴァクがジェームズ・スチュワートの前にあらわれる場面。窓から入るネオンサインの緑の光が黄金をまぶしたようにふりそそぐ。VHSでは濁った緑色だったのが、修復版を劇場で初めて目にしたとき、本来はこんな色だったのかと感動に打ち震えたのをおぼえている。サスペンスの巨匠と言われるが、男女の「愛」がヒッチコック映画の底流にある。

 他の風車とは逆向きに回るただ一つの風車(「海外特派員」)、階段をのぼる夫が持つ盆の上でカップの中に白く光るミルク(「断崖」)、首を絞められている女性の顔から落ちたメガネに映る殺人の光景(「見知らぬ乗客」)、天井からするすると降下し女の手に握られた鍵へとクローズアップしていくカメラ(「汚名」)。無実の罪で捕まった男と真犯人の顔がオーバーラップするクライマックス(「間違われた男」)、グレース・ケリーが主人公にキスをする瞬間かすかに震える画面(「裏窓」)。

 物語の展開がおもしろいのはもちろんのことだが(映画のショットは物語に奉仕するための手段にすぎない、とヒッチなら葉巻を吹かしながら言うだろうか)、ひとつひとつの場面がもつ強度は私たちを惹きつけて離さない。

 そんなイメージの渦に呑まれて(それこそ「めまい」のように)、息詰まりさえおぼえて、もはやヒッチコックしかいない、と思いつめてしまうのだ。



QooQ