デ・シーカの映画「ひまわり」を見たのは中学生のときだった。人間の機微など充分にわかるはずもない中学生が(いまだに自信をもって「わかる」とは言えないが)それなりに感動した物語を三十年も経って見直すのは不安だったが(いかにもメロドラマ的な話に興醒めしないか)、修復版を映画館のスクリーンで見て、いたく心を揺さぶられたのである。
ロシアを訪れたソフィア・ローレンがひまわり畑を見る場面は強烈な印象をもって記憶に残っていたが、今回見直して思い出したのは、この一面に咲き誇るひまわり畑の下には何万人もの兵士が眠っていたという事実である。
ロシア戦線に送られたイタリアの兵士たちは行軍中に豪雪に行き倒れ凍死していった。そのうえにひまわりが咲いているのかと考えると、単に美しい風景だと鑑賞するだけではすまされないという気持ちになる。
桜の木の下に死体が埋まっている、ということであれば怪しげな雰囲気も醸し出されるが、それがひまわりということになると急に実存的な重みが出てくる。こうなるとひまわりの一輪一輪が人の顔に見えてこないだろうか。
ひまわりは決して明るいだけの花ではないのだ。