「風景」について

2021年11月16日



                                              鈴木理策『知覚の感光板』より



 美しい風景を写真に撮ればそれなりに絵になるというのは、誰しもが実感していることであろう。だから観光地などに行くと私たちは風景を見るよりも先にスマホなどを取り出して撮影する。後日それを眺めながら、各自なりに意味をこめた「風景」を見出す。
 風景が絵や写真におさまったとたんに「風景」になってしまうということが、どこか倒錯しているような気がしてならない。それは枠内に押し込めるものでもなければ、観賞するためのものだけでもあるまい、と言いたいところだが、さほど自信をもって断言できないのは、「風景」写真というものは、やはり(甘美な)物語や意味を生み出してしまうからであろう。それを敢えて回避することもないのではとつい思ってしまう。
 そんなおり、鈴木理策氏の写真集『知覚の感光板』を見て圧倒された。
 風の軌跡、光の粒子の氾濫、息のつまるような森の緑の繁茂、画面の中の事物のせめぎ合い(しかしそれはお互いに抑圧するのではなく「調和」しているように見える)。それらの写真は風景の推移の一瞬をとらえたものだが、過去から絶え間なくつづいてきたし、これからもつづくのだという「時間」がみずみずしく息づいている。
 光が事物を現前させる。美しい風景を撮った「観光地」的写真に欠けているのは、私たちが目にするものには光があまねく浸透しているという、あたりまえの認識ではないか。自らの「知覚」の「感光板」に焼き付いたはずの風景は、いろいろな回路を経たすえに歪んだ形でアウトプットされて「風景」になる。色は見たままの色であり、物の輪郭はそのままであることを受け入れるのはなんとむずかしいことだろう。
 鈴木氏の写真がもたらすその世界を何と呼ぶべきか、適切なことばが思い浮かばないまま、ただ写真に見入ってしまう。


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