奇跡

2021年9月22日



濱口竜介「ドライブ・マイ・カー」

 冬の公園は晴れていて、緑の濃淡が輝いて見える。チェーホフ「ワーニャ伯父さん」の稽古のために演出家の家福は、役者たちを野外に連れ出す。多言語で演じられる劇は、タガログ語や日本語・中国語・英語、そして韓国語の手話が混じって演じられる。野外稽古に先だって舞台稽古の本読みは入念に行われるが、感情を込めずに棒読みを徹底する家福の指導に当初は違和感をおぼえる役者たちも、次第になにかをつかんでくる。

 そして、公園での野外稽古。手話のユナと中国語のジャニスはお互いのことばが通じないはずなのに、演じているうちに言語ではなく存在自体がある瞬間、調和するように見える。そのとき家福は「今、何かが起きた」と説明する。やわらかい木漏れ日を浴びて、遠くを(たぶん、想像の客席よりも遥か遠くを)見つめる二人の女性の美しさはたとえようもない。

 映画中の演劇を演じる役者たちのどこまでが演技なのか。その境界は曖昧になってくる。稽古を繰り返すなかで、チェーホフの戯曲が逆流するように彼らの生活に浸透してきているのではないだろうか。たとえば、家福が運転中に流すカセットテープには妻の朗読する戯曲の台詞が吹き込まれている。妻の死後も繰り返されるこの声は、家福の次の行動すら指示しているように聞こえてくる。高槻の最後の台詞はいったい本人が話しているのか、それともなにかに言わされているのか、わからなくなる。いつからか、役者たちは「ワーニャ伯父さん」の世界をそのまま生きるようになってくる。

 多様な人たちが集い、ひとつの空間をつくるものが「演劇」であるとするなら、それはひとつの「社会」そのものであろう。向かい合う相手のことばを理解できなくても、それでも通じ合うものがあると信じながら接していくこと。その絶え間ないコミュニケーションの繰り返しの最後に奇跡が起きる。

 公園の野外稽古で、奇跡を目の当たりにした家福は、それを観客に広げていくことが次の段階だと言うが、それはこの場面を見ている私たちの中でもなにかが醸成されているという意味で目的を果たしていると思う。私たちは役者たちから確かになにかを受け取ったのだから。


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