映画を生きる

2021年8月28日



 エリック・ロメール「クレールの膝」。ロメールの映画を見るたびに不思議に思う。顔の整った男女はどこか高慢な感じがするし、お互い割り切って恋愛遊戯にふける様子はとても他人の共感を呼ぶものではない。フランスのおしゃれな恋愛物語と言われもするが、優雅な話からは程遠く、むしろ登場人物たちに距離をおいて彼らの生態を観察しているのではないかと思いたくなるほど、監督の残酷な視線を感じてしまう。

 では、ロメールはなにを描きたいのか。上に述べたこととは矛盾するようだが、画面の中で必死に演技する「女性たち」ではないかと思う。ロメールの映画には海が出てきたり、森や山が出てきたりと開放感を漂わせているが、よく見ると、ミディアムショットでとらえられる女性たちは、背景を樹木や生垣、あるいは街であればカフェの壁を背景に、かなり息苦しい空間に位置づけられている。

 閉ざされた画面の中で彼女たちは必死に身振り手振りを交えて話をし、議論し、感情を爆発させる。そのとき、女性たちは与えられた空間に同調し収まることを良しとせず、自分たちの全存在を懸けて突き破ろうとしているように見える。それが逆に空間に在ることの輝きを増すのだ。ロメールはその躍動の瞬間だけをとらえるために映画を撮っているように見える。一瞬一瞬の生の場面を連鎖させていくものが映画の要でもあろう。

 この「映画」を生きている女性たちの一途さに、私たちは惹きつけられずにいられないではないか。


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