「2019日中韓青年作家会議in仁川」発表原稿より(崎浜慎)
「マイナー文学」(ドゥルーズ=ガタリ)の今後の在り方を考える上で、カフカの短編小説「巣穴」は、示唆に富んだ材料を提供してくれる。この小説の語り手はモグラのような生き物で、自分の住まいを作るために地下に巣穴を掘っていく。巣穴は彼にとって敵から身を守るための場所であり、食糧備蓄の倉庫でもある。いわば生存を保障してくれる場なのだ。しかし、今やこの安息の住み家は、見えない敵に襲われる危機にさらされているのだと彼は思いこむ。「わたしが巣穴の奥深くでひっそりと暮らしている間に、ゆっくりと、そして静かに、敵はどこからかこちらへ向かって穴を掘り進めているのだ」(由比俊行訳、以下同)
生存の場は、他者の土を掘る音におびやかされ、いつ攻撃されるかわからない不安の場に早変わりする。地中深く幾つにも分岐した坑道を持つこの巣穴を別の視点から見てみよう。「巣穴をこしらえた。なかなかうまくできたようだ」と冒頭で語り手が述べているように、巣穴は彼が作り出した〈作品〉でもある。自ら立つ場所を地中深く掘っていく行為は、文学を含めた創作活動そのものと見なすことができる。ただし、それは常に見えない他者の存在におびやかされ、自らの穴を掘る行為自体も曖昧で不確かであるという意識にとらわれることなしには貫徹できない行為でもある。
マイノリティたちが書こうとするときにさらされる状況をこの小説はそのまま表しているのではないだろうか。見えない敵とは誰なのか。それはこの小説に出てくる者のように、〈音〉として表象され最後まで姿を現さないだろう。不安におびえ恐怖にさらされながらも、私たちは「出口はひとつの希望」であると信じて掘り続けていくことしかできない。カフカが〈巣穴〉を作ることの不安定性と不確実性を作品そのものに書いたように、マイナー文学が直面している不可能性は、逆に可能性を示唆しているように思う。1923年に書かれたこの小説は、2019年の今も(いや、今だからこそ)有効なのである。穴の中に潜みながら語り手はつぶやく。「ひょっとしたら自分は他の誰かの巣穴のなかにいるのかもしれない」。そして考えるのだ。相手も自分が掘っている音を聞いていたのかもしれないと。巣穴は自分一人だけの場所ではない。常に見えない他者と隣り合っているのである。〈文学〉の場はそこにある。
今、文学にできることとは何か。自分が立っている足元に秘密の巣穴を掘り進めていき、どこにたどり着くとも知れぬ不安におびえながらも、〈希望〉という出口を探し求める過程こそが大切なのではないか。私たち各人が作る巣穴は、どこかで誰かが掘っている巣穴とつながるかもしれない。