小さく区切っていくこと

2025年2月20日

 

常に鋭い洞察を示してくれる若い人がいて、私はその人の話を聞くのをひそかに楽しみにしている。アメリカの覇権、ロシアの陰謀、AIが私たちから奪うもの、富裕層による労働力搾取など、幅広い話題は尽きることなく興味深い。その人は私の意見も求めてくるが、実のところ溢れるように出てくる自分の思考を聞いてくれる相手を欲しているのだと思う。それで私はほとんど聞き役に徹している。

いつでも、その人の話は最終的に悲観論へと陥っていく。無理もないと思う。これから社会に出る若い人たちが、いまの世界の現状をニュース等で目の当たりにして、希望をもって生活していこうと思うだろうか。AIに代表される科学技術の制御できない広がりと一部の富裕層に支配される社会を生きるその人が想像するのはさらに暗澹たる未来社会だ。

へたに励ますこともできず、どうすれば良いのかなあと嘆息するばかりの私に対して、その人も明確な答えを示してくれることはなかったが、先日、初めて、こんな社会があるといいと話してくれた。

国のような大きなものではなく、たとえば九州なら九州同士でまとまり、自治的な行政地域をつくること。小さければ小さいほど良い。

道州制の構想は以前から議論されているが、それほど切実さをもって考えられていないように思う。日本自体もアメリカの後ろ盾でなくしては、まるで未来など存在しないかのように語られ、「国」という概念がかつてないほど肥大化してきている。おそらく、国家を超えた利益追求団体が「世界帝国」として新しい「国」を形成していくのだろうが―そして私たちはいやおうなしにそれに巻き込まれてしまうのだろうが―、その際に、流れに抗うようにして小さくまとまることは一筋の光を示してくれるように思う。明るい未来は保証されていないが、やはりその人のような若い世代が社会のありかたに疑問を持ち、そこから変革が起こってくるのだと思う。

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