青山真治『東京公園』
映画の中で正面からの視線を描くのが稀であるのは、劇中人物たちの視線がスクリーンを突き抜けて観客に直接向いてしまうという事態を避けるためであろう。もし視線が観客とあうと、これまで劇中人物たちが属していた「物語」の世界があっけなく崩壊してしまうのだ。
まっすぐに見つめる「視線」は、映画が拠って立つところのフィクショナルな世界を揺らがしかねないから、それを防ぐために、人物同士が見つめ合う場面は、互いに斜めに視線をやっているショットを切り返して見せるという映画上の文法が存在する。もちろん、カットで割られた劇中人物は実際に相手を見つめているわけではないのだから、彼らは視線の交わることのない不思議な世界を生きていることになる。
ところが、『東京公園』は、劇中人物がいともたやすく一眼レフのカメラをスクリーン外の観客に向けるところから始まる。
カメラマン志望の学生・志田光司(三浦春馬)は、歯科医の男に依頼され、その妻らしき女性を尾行し撮影する。女性は子供を連れ、毎日都内のあちこちの公園を散歩している。光司は尾行の理由も説明されないまま写真を撮りつづけるうちに、女性が誰かに似ているということに思い当たる―という話を軸に、光司と同級生の女友達(榮倉奈々)や、光司と血のつながらない姉(小西真奈美)との日常生活が描かれる。その中でも大きな事件と呼べるのは、長年胸のうちに秘めていた姉との恋愛が動き出したことであろう。社会的に許されない恋が成就することはないのだが、逡巡する三浦を励ますのは友達の榮倉であり、自らの心情に向き合うことの大切さを説く。そのときの台詞が「まっすぐ見つめればわかるよ」というように、「視線」がこの映画の主題となっていることを見てとるのは困難ではない。「まっすぐ見つめること」は、この映画の中で人物たちが関係性を回復し更新していく手段となる。このとき「見ること」の暴力は、愛という側面も併せ持つのだということに留意したい。
歯医者は妻との関係を取り戻したいために三浦を使って写真を撮らせるのだが、最後に三浦は尾行をやめると宣言し、歯医者にデジタルカメラを渡す。歯医者は三浦にうながされて妻と子の写真を撮ることになり、家族の回復の契機ともなる撮影は当然正面から互いに向き合うことになる。
また、三浦が姉との関係を確認しようとマンションを訪れる場面では、姉を「ちゃんと」撮りたいとカメラを携えていく。ファインダー越しに互いに正面から見つめ合うことによって、初めてふたりは抑えていた思いに突き動かされるように抱き合う。
おそらく、私たちは自身や相手の存在を揺るがしかねないまっすぐな視線をそそぐことに躊躇せざるをえないだろう。しかし、対象を直視することはまた「愛」と呼べるものをも生起させるのだと考えるならば、新たな関係性に移行するためにも禁忌にあえて触れなくてはならない場合もあるのではないだろうか。